フェリーニが「81/2」を撮って以来、それにインスパイアされて、こうした虚実取り混ぜて現実と幻想が交錯するスタイルの自伝的作品を、多くの監督が撮るようになった。例を挙げれば、ボブ・フォッシーの「オール・ザット・ジャズ」、タルコフスキーの「鏡」、近作ではテレンス・マリックの「ツリー・オブ・ライフ」もそうかもしれない。「田園に死す」も、モロそれ的な映画であり、たしか寺山修司は昔キネ旬のアンケートで「81/2」をマイ・ベストにしていたように記憶する。
この種の作品は、監督が自分の映像技巧のほとんどを投入する傾向があるので、結構見ごたえのあるものが多いのである。
昔観たときは、寺山修司の繰り出す様々なイメージに捕らわれて、映画の構成自体がよく把握できていなかったきらいがあった。しかし今回観直すと、作品自体の構成は、故郷を舞台に四人の女(母、隣の若妻、子供を中絶して東京に行った女、サーカスの風船女)のエピソードを交錯させて描く、という意外にシンプルなものだった。
後半になって、そこに現在の自分が侵入してきて、この世界が壊れていく、というのがおおまかな粗筋である。
自分の周辺の女ばかりを描いている点で、明らかにフェリーニ作品の本歌取り的要素があるのだが、その四人の女は、母、隣の若妻、子供を中絶して東京に行った女、サーカスの風船女と進むうちに、実在性が減少して虚構性が強くなっていく。
母は最もリアルな存在で、隣の若妻は幾分作者の装飾があり、子供を中絶して東京に行った女は、故郷の田舎町で噂になっていたの少年時代の作者が小耳に挟んだ程度だろう。風船女はほとんど虚構の存在に違いない。
この作品はカンヌ映画祭に出品されたが、受賞はなかった。おそらくこれは寺山のイメージが日本人固有の部分に依拠している事を示す。我々日本人にはハッとするものであっても、外人にはわからないのだ。
例えば、女児を川に流すと上流から五段雛が流れてくる有名なシーンの場合、五段雛が家族に慈しんで育てられる幸福な女の子の象徴であることは外人には理解できず「?」という反応を生むだけであろう。
また昔観たときは気にしなかったが、案外低予算だったんだな、ということも今回わかった。