バヤデールには多くの収録がありますが、これはお子様にも見せられる善良で優美な版で、私も平和に美しい作品を楽しみたいのでこれが好きです。
ダンサーの衣装は、露出的な衣装ではなく、クレープ生地のようなスカートの切れ目から、時折ほっそりとした美しい足が見えるのが素敵。黒く顔を塗ったダンサーも出てこず、黄金の仏像も薄めの金色でダンサーの尊厳が守られています。演技面でも、ガムザッティがニキヤに宝石をあげたり、ニキヤが死ぬ直前にガムザッティを指差しする演技がないため、両者の性格の善良さが保たれています。
ボロンツォワ(ニキヤ)は、容姿も踊りも、女性らしいスィートな美しさの点で他のどの版のニキヤよりも圧勝、1幕のソロルとのパドドゥは絵画のようです。レベデフ(ソロル)は容姿も踊りも完璧、かっこよく決断力ある戦士として、婚約式ではガムザッティ側に100%立っています。
ラザコワ(ガムザッティ)は背が高くスラっとした幸せそうな王女様で見事なテクニックです。後ろにいる王妃が優美な演技をしていて、ガムザッティの育ちの良さを推測させます。ラザコワはロシア侵攻後にアメリカに行かれたので、この見ごたえのある組み合わせを収録できたのは幸運です。
この版も含めロシアやフランスでは神殿崩壊はありません。英国ロイヤル(2018年)や日本の新国立劇場(2024年公演)の神殿崩壊は主流ではありません。神殿崩壊は、ニキヤの善良さを失わせ、ソロルを決断力のない弱々しい戦士にし、ガムザッティを哀れにし、ヒンズー教徒や地震被災者の心を傷つけるように感じます。(不快にさせたら申し訳ありませんが正直な思いです。)
初めてバヤデールを見るときに理解しにくい身分の問題について、少し補足します。
身分が高い者から順に、大僧正→国王(ガムザッティの父)・ガムザッティ・ソロル→(かなり下に)ニキヤ、の順になります。登場人物どうしが挨拶するときは、下位の者から先にお辞儀をしています。ただし、大僧正の寺院は国王の経済力によって支えられているので、大僧正が国王に命令できる関係ではありません。この身分関係からは、ニキヤが大僧正の寵姫(という身分があるのかわかりませんが。)になるという選択肢は、客観的には悪くない選択肢に思われます。
ボロンツォワのニキヤは、何らかの悲しい事情で寺院に預けられ舞姫となったように思われます。寺院の中で大切に育てられたために、社会的身分というものを知識として知っていても心として理解はしておらず(ある意味「お嬢様舞姫」のようなもの)、ソロルとの愛は人間どうしの愛だと思っていました。婚約式で祝福の舞をするときも、花かごをもらったときも、まだソロルとの人間どうしの愛をピュアに信じています。
毒蛇にかまれた時にようやく、社会的身分という現実を心の底から理解して絶望し、身分のない神の国を希求して昇天します。昇天後は、神の愛により神々しさを増し、身分の関係ない二人の男女として、ささやかな結婚式のような(友人たちの踊りもある)思い出作りをした後、穏やかな気持ちで神の下に戻ります。もう幻でも出てくることはないでしょう(以上は私見)。
「マリインスキーの至宝ロパートキナ」というDVDで、1幕のソロルとのパドドゥ・2幕の花かごのソロ(毒蛇にかまれる前まで)・3幕のソロルとのパドドゥ1つ、の3場面だけですが、ロパートキナの素晴らしい踊りが見られます。
ロパートキナのニキヤは、神に仕えたいという積極的な気持ちで舞姫になり、社会的身分が下であることも十分に理解しているように思われます。ソロルとの愛は、ソロルの姿の中に「神」の面影を見てしまい、神への愛と混同した(迷い道に入り込んだ)愛でした。婚約式で祝福の舞をするときも、花かごをもらったときも、自分の神への愛への姿勢が正しかったのか自問自答しているような迷いがあります。
昇天後は、念願だった神の下に落ち着き、(ソロルを含めた)全人類に対して神の愛を伝道しています。ソロルが次期国王として岐路に立ったとき、神の愛による指針を伝えるために再び幻に現れるかもしれないなと思います(以上は私見)。