「日本のいちばん長い日」のオルタナティヴと位置づけられているようだが、監督自身によると、「江分利満氏の優雅な生活」と、どうやら双生児のようだ。舞台は異なっていても、いずれも“現在”から振り返った“戦争”ということだろうか。あれは、いったい何だったのだろうか?と。つまり、岡本さんの中で“戦争”は終っていなかった。なぜなら、“戦争”は“青春”と切り離せないものとしてあったから、ではないのか。これは、山田風太郎や水木しげるでなくともそうなんだろう。たとえ“戦争”は国家が勝手におっぱじめたものであっても、あくまで“自分事”なのである。生身の自身が経験した逃れようのない事実。もちろん、“戦争”だけが“青春”のはずもないが、発育途上の丸裸の感性がとらえた“戦争”には、それだけで何某かの価値があるかもしれない。
この16ミリで撮られた家内制手工業的なモノクロで安上がりの小品[尺は117分]に込められたものの大きさについては、監督自身があちこちで語っているので省くが、ここでは、その“想い”ではなく、映画としての“面白さ”を見ていきたい。突然、特攻隊員に任命された21,6歳の「あいつ」の短い物語。この年齢が、昭和20年の男子の平均寿命であり、ほぼ監督自身の年齢でもあったところが、まず絶妙だ。つまり、客観と主観がない交ぜになっている。事程左様に、ここに開陳されるものは、かならずしも経験に依らないものではないが、経験だけに頼ってもいない。だから、喜劇にもならない代わりに悲劇にも陥らない。上官[田中邦衛]に呆れられて、“貴様は一体、貴様は一体”を繰り返す場面で、針飛びを繰り返す蓄音機がインサートされたり、メガネをかけた豚が、っていうとその挿絵が差しはさまれたり、といった茶化しがすかさず入る。北林谷栄には、この脚本が嫌われたらしいが、再読して監督の気持が解ったとノー・ギャラで出演してくれたという。彼女が演じる古書店のおばあさんが何とも麗しい。階段から降りてくるだけで、“観音様”を想わせるのだから、その用意周到の演技に畏れ入る。可憐と気品。失われて久しいものをちゃんと身につけている。ダンナはB29に両腕をもっていかれた笠智衆。「あいつ」は生憎おばあさん不在のため、「あれ」をやらされる羽目に。―「あれとは?」「しょん便です!」―この夫妻のほっこりに当てられて「あいつ」は泣きながら雨の中を逃走する。この前半の雨の湿潤が後半、一転して乾ききった砂浜を舞台とするのが巧妙である。
臨死の「あいつ」[我利我利亡者のような寺田農の無駄のない身体はまるで土方巽!]が向かうところは当然のように廓だ。なぜだろう?それはやはりこの世で経験しておくに足る“天国”だからだろうか?もちろん、映画が用意したのは、地獄の“化物”ではなく、天使のような女学生。未成年の大谷直子。彼女は決して世の風潮にあわせてNUDEになったわけじゃあない。剥き出しの「あいつ」と対峙するために脱ぎ出したのだろう。まるで潮騒だが、それはいつの世も変わらない。男は守れる相手を常に求める存在でもあるのだろう。いや、死すべき者は、とここでは言い換えよう。いわば、「あいつ」は、ここで全身全霊にタップリの水を補給した。それで、一滴の潤いもない砂浜でも生き生きと歩き続けられたのだろう。
この砂浜のシークエンスは、少年たちや看護師をはじめとした登場人物たちの出入りを見ていても、実に演劇的だ。砂浜が板[舞台]に、もっといえば密室にも見える。監督は、“神話の世界”を現出させたかったらしいが[あ、それで少女が(因幡の白)“うさぎ”か?]、それじたい芝居がかっている。抽象化でもあり、「あいつ」が少女から切断され、個に還っていくプロセスであるのかもしれない。だから、決して“神話化”などではないだろう。美しく結晶化[クリスタリザシオン]させたりはしない。成仏させたりはしないのだ。